学びながら、仕事がしたい
蛭子さんの記事が半端になってしまっているのだが、忘れないうちに外在化しておきたい。
ちょっと・・・いや、かなり大事なことだ。
表題の通りだ。
私が働くときのキーとなるのは、物事の新規性と知的好奇心への刺激、学びだ。
何故、気づかなかったんだろう?(気づかなかった自分に気づき、今、かなり動揺している。文章が変かもしれない・・・)
実は、すごく重視していたんだ。
重視というか、渇望に近い。
それらが無いと、私には『仕事』が、途端、『つまらない単純作業』になってしまう。
つまらない・面白くないことは、どうしても続かない。
大抵、どこかのタイミングで無理が生じる。
フルタイムになれば、その『つまらない単純作業』に長時間拘束させることになる。
続かないのは尚更だ。
振り返ると、勉強をしつつ仕事をしている時、(そりゃ大変でなかったわけではないけれど)仕事が楽しかったのだ。
具体的目標設定と計画、それに沿う学習と実践。
達成の可否も大事だが、なにより、学びと実践を同時に進められる。
これが楽しいし、続く。
自分で自分の伸びに気づく。
「あ、これは」と。
ある程度、決まりきった答えやマニュアルの無いことの方が好きだ。
予定不調和の方が好きだ。
「あー、はいはい。わかったわかった」という時よりも、
「えぇー・・・なんでだ!わからん!」と、なっている時の方が面白い。
その中で、自身なりの答えを練り上げること・見出すこと、また、他の人たちの意見や答えを聞きながら学び、よりよいものを構築していくことが好きだ。
お金と自身の関係に、気づかぬうちに、とても苦しんでいた。
恥とか罪悪感とか破壊とか苦悩とか。
とにかく、私のお金へのイメージは悪い。
そういう目でしか見ることのできない、不健康なストーリーの積み上げが原因だ。
でも、資本主義の世の中で、人はお金と離婚もできないし、別れることもできない。
お金から逃げ出すことはできないし、自分だけにお金が集まってくるように仕向けることもできない。
過去は変えられない。
ギャンブル依存による金銭トラブル・人間関係トラブルを起こした父はもういない。
亡くなって10年。
亡くなった人間との間にあったストーリーに縛られ、いつまでも自身の現在や未来を暗くするのは、愚かしい。
大切なのは、今。
そして、これからの将来をどうしていくか、だ。
問い直しの最中ではあるが・・・少しずつアウトラインは見えてきているように思う。
『自分とお金との関係をヘルシーなものにしたい』。
そう心から思うのだ。
親の困窮(不適切な消費行動を含む)のため、18歳からなんだかんだ、ずーっと働いてきた。働かざるをえなかった。
ごく狭い選択肢の中でしか、働くことも、稼ぐことも、使うことも、得ることも・・・選べなかった。
悠長に考えている暇などなかった。
明日の生活、来週の生活、来月の生活を心配し、不安に思う。
20年、そんなことを繰り返していた。
そうした経験は、もうよい。
もう、いいじゃないか。
逆に、圧倒的に足りていない、自身のためにお金を稼ぎ、使い、それを味わう(吟味する)という経験。
恥じることなく、お金に向き合い。
罪悪感を持つことなく、お金を消費し。
意義や満足を味わい、吟味する。
それら積みたい。
現在を、未来を見たい。
心や体があまり丈夫ではない。
子どもの頃から自覚はある。
むろん、健康維持のための努力はする。
ただ、若い頃からの無理や無茶がたたっているのは事実だ。
くわえて、心身の声をないがしろにする悪癖が未だ抜けていない。これは課題だ。
自分が死ぬまで付き合う『自分自身』だ。
時々の不調にもなんとか折り合いをつけながら、上手に付き合っていかなければならない。
自分を、自分の心身を大事にしたい。
そうしながら働きたい。学びたい。
さぁ、何を学ぼうか。